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土木巡礼フォトギャラリー

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写真・文章:大村拓也

Photographer 大村拓也プロフィール
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渡月橋(京都市右京区)

渡月橋(京都市右京区)

京都の景勝地・嵐山は、人の手によって作り上げられた風景だと言って過言では ない。その主役となるのが、桂川に架かる渡月橋だ。ヒノキ造りの欄干や丸柱の橋 脚、木製のひさし「桁隠し」などがあり、一見すると木橋のようだが、主な構造は 鉄筋コンクリートである。歴史的には、桂川の改修を手掛けた空海の弟子・道昌が 永和3(836)年、現在の位置よりも200m上流側に架橋したのが始まりとされる。橋 はその後、幾度となく架け直され、昭和9(1934)年に完成した現在の橋は、それ まで架かっていた木橋を模した。
 橋の名は、13世紀鎌倉時代に亀山上皇が橋の上流側で川遊びをしていた際、澄ん だ空を月が橋を渡るかのように見えたことを「くまなき月の渡るに似る」と、表現 したことに由来する。湖のように船を浮かべることができたのは、この地域の有力 な豪族であった秦氏が右岸側に農業用水を引いて田畑を開発するため、5世紀後半 、桂川を「葛野大堰(かどのおおい)」で堰き止めたことに遡る。秦氏は朝鮮から の渡来人であり、高度な土木技術を持っていた。かつて葛野大堰があった場所には 、昭和29(1954)年にコンクリート造の「一の井堰」が設けられ、農業用水の取水 以外に、川下りの下船場や鵜飼い、遊覧船、三船祭、嵐山もみじ祭りといった観光 資源に活かされている。堰からの落水もまた、風景の一部になっている。
 穏やかな風景とは裏腹に、嵐山は5年に一度のペースで桂川の氾濫に見舞われて きた。直近では、平成25(2013)年9月に台風18号の直撃を受け、両岸の旅館や土 産物店などが浸水する被害が出たほか、平成26(2014)年8月にも道路の一部が浸 水した。この付近は川幅が狭くなっているうえ、渡月橋の下流側にある、川底の土 砂を安定させるための「6号井堰」によって水深が浅くなっていることが主な原因 だ。国は暫定的な治水対策として、周辺の川底の堆積土砂を撤去する計画だが、根 本的な対策には、堤防のかさ上げやパラペットと呼ぶコンクリート壁の設置のほか 、6号井堰の撤去などが必要だとされている。ただし、河川改修の方法によっては 川の見通しが阻害されるだけでなく、水面の形状にも変化が及ぶことが懸念されて おり、長く親しまれた景観に配慮した治水のあり方が模索されている。

(2014年12月の「土木巡礼カレンダー」に掲載)

 

函嶺洞門(神奈川県箱根町)

函嶺洞門(神奈川県箱根町)

小田原から湯本、塔ノ沢、小涌谷、芦ノ湯といった温泉場を経て、芦ノ湖へ通じる現在の国道1号(東海道)のルートが完成したのは、明治37(1904)年のことだ。それまでの旧東海道は、明治34(1901)年に発表された唱歌「箱根八里」で「箱根の山は天下の剣」と歌われるような険しい山道だった。
 ただし、国道1号も急峻な地形に道路を設けた部分があり、塔ノ沢付近では、大正時代末期以降、高さ120mの崖の上から落石事故がたびたび発生。当初、落石防止柵などによる旧来の対策を施したものの効果がなく、昭和6(1931)年に函嶺洞門が建設された。
函嶺洞門は落石から道路を守るための「ロックシェッド(落石覆い)」で、長さ100.9mの区間を鉄筋コンクリート構造物で覆っている。完成当時はまだあまり例がなく、雪崩から鉄道や道路を守るための「スノーシェッド(雪崩覆い)」を参考に設計された。明かり取りのため、谷側は壁ではなく、柱が等間隔で並べられており、当時の資料には「開腹隧道(トンネル)」という名称で紹介されている。
 洞門の出入り口にあたる坑門は、中国の王宮をイメージしたデザインが施されていることも特徴だ。毎年正月に開催される箱根駅伝のコースにあり、駅伝のテレビ中継で必ず紹介されるので、全国的にも知名度が高い。
 80年以上に渡って、箱根を訪れる人々に親しまれてきた函嶺洞門だが、内部の幅員が約5.8mと狭く、大型バスなどの行き違いが困難なため、交通量が多い休日には渋滞の原因ともなっていた。また、平成17(2005)年の台風の際、坑門付近で大規模な土砂崩れが発生し、国道1号が通行止めになったことから、神奈川県は平成19(2007)年から函嶺洞門を迂回するバイパス(延長170m)の整備に着手。平成26(2014)年2月に新ルートへ切り替えられ、国道としての役目を終えた。現在、遊歩道としての利活用も視野に入れて、老朽化状況の調査などが進められている。

(2014年11月の「土木巡礼カレンダー」に掲載)

 

惣郷川橋梁(山口県阿武町)

惣郷川橋梁(山口県阿武町)

山陰本線は京都駅から中国地方の日本海側を経由して、山口県下関市にある幡生(はたぶ)駅に至る全長673.8kmの鉄道路線で、昭和8(1933)年に全線が開通した。波打ち際に沿ってカーブを描きながら架かる橋長189.14mの惣郷川橋梁は、最後の開通区間となった須佐駅~宇田郷駅間(区間延長8.8km)にある。
格子状のシルエットが特徴のこの橋は、「鉄筋コンクリートラーメン高架橋」と呼ばれる。ラーメンとは、ドイツ語で「額縁」という意味があり、垂直方向に伸びる柱と水平方向に伸びる梁を剛結させた構造を指す。橋のどこかに外力が加わると、一体化された橋全体に影響を及ぼすので、設計のための構造計算は複雑になるものの、地震によって受けるダメージを橋全体に分散できるなど耐震上のメリットがある。
ラーメン高架橋は現在、新幹線や都市鉄道の連続高架橋の大部分に採用されている構造だ。ただし、画一的なデザインが延々と続くので、どれも無機質で華やかさに欠けるものが多い。惣郷川橋梁のように壮大な風景の中に溶け込んだ例は珍しく、日本一美しいラーメン高架橋といっても過言ではないだろう。
明治時代から大正時代にかけて、鉄道橋は鋼製の「鉄橋」が主流だった。ただし、潮風を受ける場所では、鉄橋は塩害によって錆びやすく、塗装や錆落としなどの日常的なメンテナンスを必要としていた。こうした課題を解決するため、惣郷川橋梁では当時まだ実績が少なかった鉄筋コンクリートが用いられた。完成から80年以上経ち、コンクリート表面に老朽化の影響が多少見られるものの、適宜補修がなされ、橋全体は健全な状態が保たれている。鉄筋コンクリートによる土木構造物は惣郷川橋梁の建設以降、戦争による鋼材不足と相まって、急速に普及していった。

(2014年10月の「土木巡礼カレンダー」に掲載)

 

音無井路 十二号分水(大分県竹田市)

音無井路 十二号分水(大分県竹田市))

大分県南西部に位置する竹田市は、くじゅう連山や阿蘇山など標高1000m級の山に囲まれ、丘陵が複雑に入り組み、平地が少ない。そのため、高台にある棚田でも耕作できるように江戸時代から「井路」と呼ばれる農業用水路が張り巡らされてきた。この地域には、九州独自の技術で架けられた石造アーチが点在するが、半数近くは井路のための水路橋だ。
 延長13kmの音無井路は、大谷川から取水し、山を隔てた宮砥(みやど)地区の耕地約180haを潤している。井路が実際に通水したのは明治25(1892)年だが、最初の工事が始まったのはそれよりも200年前に遡る。この計画は、荒れた土地に水路を通すことで農業を発展させ、岡藩の財政を立て直すことを画策した藩士の須賀勘助によるものだった。勘助の指揮によって、元禄6(1693)年に着工し、幾多もの難工事の末、音無井路は一旦の完成を見たものの、その直後の水害で水路は壊滅的な被害を受け、復旧の目処も立たず、勘助は責任を取って割腹したといわれている。
 明治時代になって、音無井路の再建に乗り出したのは、旧岡藩の井上藤蔵と宮砥地区在住の熊谷桃三郎だ。明治10(1877)年に計画と測量に着手。資金を調達した後、明治17(1884)年に着工した。ただし、難工事を強いられたことは江戸時代と変わらず、私財を投げ打って工事を続けた2人は破産するまでに至った。そのため、藤蔵はこの地を離れざるを得ず、残った桃三郎が周囲の協力のもと、明治25年にようやく取水口から長さ2kmのトンネルの完成に漕ぎ着けた。
 明治31(1898)年に音無井路は完成したが、今度はこの井路をめぐり、宮砥地区の中でたびたび水争いが起きるようになる。その対策として、耕地面積に応じて、3地区に水を公平に分配するため、昭和9(1934)年に写真の円筒分水が設けられた。トンネルを通じて、円形中央から湧き上がった水は、円筒側面に設けた小窓からその数に比例した量が、各地区へつながる水路へそれぞれ流出する仕組みだ。焼酎のテレビCMで映し出されたことがきっかけとなり、同じ竹田市内にある、日本一美しいダムと称される「白水堰堤」や石造アーチ「若宮井路 笹無田石拱橋」とともに、全国的に知名度が高い土木遺産となっている。

(2014年9月の「土木巡礼カレンダー」に掲載)

 

横利根閘門(茨城県稲敷市・千葉県香取市)

横利根閘門(茨城県稲敷市・千葉県香取市)

 

利根川は江戸時代初めまで、江戸を経て、東京湾に流れ込んでいた。現在のように茨城県と千葉県の県境を通り、太平洋へ直接流れ込むルートができたのは、新たな川が開削された承応3(1654)年のことだ。徳川家康の命令で文禄3(1594)年に始まったこの河川改修は、明治時代まで続き、後に「利根川東遷事業」と名付けられた。
利根川東遷の効果には、江戸城下の氾濫対策や新田開発、江戸と太平洋を結ぶ舟運(しゅううん)ルートの確保などが挙げられる。反面、利水のための整備に重点が置かれたので、河川や湖沼が多く水郷としても知られる利根川の下流域は、川の氾濫による被害をたびたび受けていた。それにも関わらず、この一帯の治水対策は、明治33(1900)年に内務省が直轄で「利根川改修工事」に着手するまでほとんど手付かずのままだった。
利根川改修工事は、昭和5(1930)年までの30年間に渡った。その一環として建設されたのが大正10(1921)年に完成した横利根閘門だ。約280万個ものレンガが使用され、レンガ造りの閘門としては日本最大級を誇る。閘門とは、その前後で水位が異なる河川において、船を行き来させるための言わば、船のエレベータだ。閘門中央の「閘室」と呼ばれるスペースに船を収め、その前後をゲートで締め切ったうえで、閘室内の水位を調整する。横利根閘門が設けられた場所は、並行して流れる利根川と常陸利根川を結ぶ横利根川で、利根川との合流点の付近に当たる。利根川が増水した際、横利根川へ水が逆流することを防ぎ、常陸利根川とその上流の霞ヶ浦一帯を水害から守るとともに、従来の舟運を確保した。

横利根閘門を通行する船は現在、年間多くても2000隻程度。年間5万隻の船が行き交っていた昭和10(1935)年ごろと比べれば、舟運はすっかり衰退したものの、閘門としてはまだまだ現役だ。また、完成から70年ほど経った平成6(1994)年に補修を兼ねて、ゲートの開閉を電動化するなどの大規模な改修工事が行われ、外観は建設当時の姿が復元された。平成12(2000)年には、大正時代の日本の閘門技術を現代に伝える貴重な近代化土木遺産として、国の重要文化財に指定されている。

 

(2014年8月の「土木巡礼カレンダー」に掲載)

 

牛伏川(うしぶせがわ)階段工(長野県松本市)

牛伏川(うしぶせがわ)階段工(長野県松本市)

中世以降の乱伐によってはげ山と化した鉢伏山は、たびたび土石流災害を引き起こすなど、信濃川上流に当たる牛伏川流域に被害をもたらした。信濃川を治水するうえで、水源となる地域の土砂流出を抑制することの必要性を重視した国は、明治14(1881)年から明治22(1889)年にかけて、長野県各地で内務省の直轄事業として砂防工事を実施。牛伏川では、石積み堰堤による砂防ダムが5基建設された。明治23(1890)年、牛伏川を視察したオランダ人技術者デ・レーケはその効果を高く評価し、さらに上流側にも石積み堰堤を増設することを助言している。その後、牛伏川の砂防工事は一旦中断されたものの、明治31(1896)年に長野県が直轄する初めての補助砂防事業として引き継がれた。
長野県は大正5(1916)年、初期に建設された砂防堰堤が損傷し、洗掘が進行したため、改良を検討。これを受けて、内務省の技師池田圓男(まるお)は、石張りにした流路を階段状に設けることを提案した。大正7(1918)年に完成した階段工は延長141mあり、高低差約24mを19の段差に分けて落水させることで、河床浸食を防いでいる。この構造は、池田がヨーロッパ派遣時に持ち帰った文献に載っていたフランス・サニエル渓谷の砂防堰堤の図面を参考としたものだ。
鉢伏山には、最終的に大小合わせて200カ所以上の砂防施設が設けられた。植林によって、緑が甦ったこともあり、かつての荒廃した姿はもうどこにもない。山の麓側に位置する階段工の周辺は公園として整備され、美しい石積みは「牛伏川フランス式階段工」として市民に親しまれている。平成24(2012)年、国の重要文化財に指定された。

(2014年7月の「土木巡礼カレンダー」に掲載)

 

駒沢給水所配水塔(東京都世田谷区)

駒沢給水所配水塔(東京都世田谷区)

駒沢給水所配水塔(東京都世田谷区) 東京の近代水道の歴史は、新宿に建設された淀橋浄水場が1898(明治31)年に通水したことに始まる。供給地域は神田や日本橋などを皮切りに順次拡大した。ただし、その範囲は当時の東京市内に限られ、現在の東京23区に相当する地域であっても、その多くは地域独自で水道事業を行う必要があった。中でも豊多摩郡渋谷町(現在の渋谷区)では、明治末期から大正にかけて著しく人口が増加したため、町営による上水道の布設計画が早くから持ち上がった。
全体の計画は、東京市の水道技師を務め、日本各地の都市水道の計画も指導した東京帝国大学教授の中島鋭治(1858-1925)に依頼された。1917(大正6)年に計画が取りまとめられ、1921(大正10)年に着工した。この計画は、多摩川の水を砧村(現在の世田谷区)に設けた砧浄水所でろ過し、約4km離れた駒沢給水所で高さ30mの配水塔にポンプアップしたうえで、さらに約5km離れた渋谷町に向けて重力によって自然流下させるものだった。
1923(大正12)年に完成した渋谷町水道は、1932(昭和7)年に渋谷町が東京市に編入されるのと同時に、現在の東京都水道局に移管された。また、駒沢給水所は1999年まで現役で水を送り続け、今はその役目を終えているが、災害時に飲料水を供給する応急施設として残され、配水池と2基の配水塔は常時合計3000トンの水を蓄えている。王冠にも似た独特のデザインが施された鉄筋コンクリート造の配水塔は、街のシンボルとして地域住民に親しまれている。

(2014年6月の「土木巡礼カレンダー」に掲載)

 

旭橋(北海道旭川市)

旭橋(北海道旭川市)

旭川市中心部とその北側に設置された旧陸軍第7師団を結ぶため、1932(昭和7)年に架けられた石狩川の橋だ。設計を指導した北海道帝国大学教授の吉町太郎一(1873-1961)は「旭川の象徴になるような橋」をイメージしたといわれ、橋全体からは力強さが感じられる。
橋長は225.4m。建設当時、北海道最大を誇った支間長91.44mには、「タイドアーチ」が用いられた。タイドアーチとは、荷重を受けたアーチが押し広げられて潰れないように、その両端を水平部材「タイ」でつなぎとめる構造を指す。アーチの大型化によって、タイに作用する引っ張り力が増大することから、ドイツから輸入した「ウニオン・バウシュタール」という高張力鋼が使用している。さらに、夏冬の温度差が60度にもなる旭川の過酷な気候を考慮して、橋全体の温度収縮を吸収する可動部「ロッキングカラム」を設けたことも旭橋の構造として特筆される点だ。複雑な構造計算を経て、設計されたことがそのディテールからも伺える。
橋梁形式上は「ブレーストリブ・バランスド・タイドアーチ橋」と呼ばれ、アーチを上下に2段に重ねてトラスで結合した「ブレーストリブ」や、アーチを側径間まで連続させた「バランスドアーチ」といった構造が盛り込まれている。同様の形式の橋は、東京都の白髭橋(1931年完成)と岐阜県の忠節橋(1948年完成)、岩手県の北上大橋(2003年完成)があるだけだ。歴史的にも構造的にもとても貴重なうえ、完成から80年以上経った現在も、国道40号の橋として第一線で活用されている。

(2014年5月の「土木巡礼カレンダー」に掲載)

 

琵琶湖疏水(滋賀県大津市)

琵琶湖疏水(滋賀県大津市)

明治維新後、人口の流出と産業の衰退が著しかった京都を再建するため、1881(明治14)年に京都府知事に就任した北垣国道(1836-1916)は、滋賀県の琵琶湖から京都市内へ疏水を通す構想を打ち出した。灌漑や上水道、舟運、水車動力の整備によって、京都へ近代産業を誘致することが主な狙いだ。北垣は、田辺朔郎(1861-1944)を1883(明治16)年に京都府の技師として招聘し、疎水の計画と工事監督に当たらせた。着任当時、田辺は工部大学校(後の東京大学工学部)を卒業したばかりだったが、在学中、工部省(現在の国土交通省や経済産業省の前身)の命令で琵琶湖疏水の路線調査に当たり、それを卒業論文にまとめ上げていたことがきっかけで、北垣にその存在を知られていた。
全長約11kmの疏水のうち、その3分の1を占めるトンネルは、田辺の卒業論文のテーマのひとつでもあった。工事は1885(明治18)年、3本あるトンネルの中で最も長い第一トンネル(長さ2436m)の竪坑に着手し、1889(明治22)年に貫通。疏水は、1890(明治23)年に完成した。
また、工事期間中の1888(明治21)年に渡米した田辺は、水の利用方法を視察し、当初計画されていた水車動力を取りやめ、商業用水力発電の実用化に踏み切っている。発電した電力は、京都市内に供給されただけでなく、日本初の電気鉄道にも用いられた。交通事情の変化によって、舟運は1948(昭和23)年に廃止されてしまったが、水力発電と上水道のための機能は完成から120年以上経った今もなお現役だ。

(2014年4月の「土木巡礼カレンダー」に掲載)

 

鴇波洗堰(ときなみあらいぜき)(宮城県石巻市)

鴇波洗堰(ときなみあらいぜき)(宮城県石巻市)

北上川は江戸時代より水運が発達し、河口にある石巻は南部藩領(現在の岩手県)から下ってきた米を積み替え、海運で江戸まで運ぶための結節点として栄えた。反面、250km近い流路延長を誇る東北地方最大の河川であるがゆえ、下流域はたびたび洪水被害に見舞われてきた。明治43年(1910)に東日本全域を襲った未曾有の豪雨による洪水がきっかけとなり、政府は翌年から北上川の改修に着手した。改修事業は、石巻港から約34km上流に位置する柳津から約12kmを新たに開削し、既存の追波川(おっぱがわ)へ接続することで、全長約26kmの放水路(現在の新北上川)を整備するものだった。分流点となった柳津では、従来の北上川(現在の旧北上川)を横断するように長さ約800mの堤防で仕切り、その両端に鴇波洗堰と脇谷洗堰を設け、昭和7年(1932)に北上川の分流が完了した。2基の洗堰は、旧北上川へ一定流量を分配する役割を担う。しかし、その後、洪水時は旧北上川への流入をゼロにするように河川計画が変更され、2001年から08年にかけて、各洗堰の上流側に水門が1基ずつ建設された。新設の水門は洪水時のみ水流を止めるので、洗堰とそれに併設された閘門は、現在も昔のまま機能し続けている。

(2014年3月の「土木巡礼カレンダー」に掲載)

 

奈川渡ダム(長野県松本市)

奈川渡ダム(長野県松本市)

北アルプス・槍ヶ岳を水源に持つ梓川には、約6kmの区間に3基のアーチ式コンクリートダムが連続して設けられている。このうち、最も上流側に位置する奈川渡(ながわど)ダムは、堤高155m、堤頂長355.5mで、富山県の黒部ダム(堤高186m)や広島県の温井ダム(同156m)に続いて、アーチダムとしては国内で3番目の高さを誇る。ダムの天端には、長野県松本市から岐阜県高山市へ抜ける国道158号が通っており、関東方面から梓川上流部にある景勝地「上高地」を訪れる多くの観光客が通過する主要なルートでもある。
3基のダムは、いずれも昭和36(1961)年から昭和44(1969)年にかけて、一斉に建設された発電用ダムだ。奈川渡ダムの直下にある安曇発電所では、奈川渡ダムを上池、下流側の水殿(みどの)ダム(堤高95.5m)を下池とする揚水発電を行っている。水殿ダムもまたその下流側の稲核(いねこき)ダム(同60m)と連携して、揚水発電を行う。これらのダムに関連する4カ所の発電所の合計出力は最大で90万kWに及び、大部分が関東地方に送電されている。

(2014年2月の「土木巡礼カレンダー」に掲載)

 

羽田空港(東京都大田区)

羽田空港(東京都大田区)

昭和6年(1931)に開港した羽田空港(東京国際空港)は戦後の経済成長とともに、滑走路やターミナルなどの移転と拡張を繰り返してきた。それは、土木技術の発展の歴史でもある。中でも、空港の面積を倍以上に増やした「沖合展開事業」は、昭和59年(1984)の事業着手からすべて完成するまでに20年以上要した。ヘドロが堆積した超軟弱地盤を埋め立てる必要があり、地盤に含まれる水分を抜いて、圧密を促進するために様々な地盤改良技術が培われた。さらに沖合展開事業後は、1990年代に既に限界に達していた航空機の発着能力を拡大するため、2001年から新たに「再拡張事業」に着手。2010年に羽田空港の4本目の滑走路「D滑走路」と、国際線の旅客と貨物を中心に取り扱う「国際線地区」が完成した。D滑走路は、多摩川河口の水流を阻害しないように、橋梁の技術を応用し、従来の埋立だけでなく桟橋も組み合わせた世界初の構造が最大の特徴だ。現在、首都圏の空港機能の強化に関する議論がなされており、今後も羽田空港が拡張される可能性は十分にある。

(2014年1月の「土木巡礼カレンダー」に掲載)

 

淀川橋梁(通称:赤川鉄橋)(大阪市都島区・東淀川区)

淀川橋梁(通称:赤川鉄橋)(大阪市都島区・東淀川区)

10月末、赤川鉄橋は淀川を渡る歩道橋としての役割を終えた。全長約611mのこの橋は、トラス桁の内側に線路と歩道を設けた併用橋で、国内ではほかに例がない構造だった。現在、赤川鉄橋を渡る「城東貨物線」は、新大阪~放出間延長11.1kmを「おおさか東線」として、旅客化する工事が進められている。歩道の廃止はこのプロジェクトに伴うものだ。今後、歩道があった空間に線路を増設し、複線化する。
赤川鉄橋は昭和4年(1929)、大阪市の北部と南部を結ぶ貨物線の一部として完成した。当初から複線規格で設計されていたが、貨物線は単線で運行されてきた。そこで、大阪市は線路を敷設していない上流側の空間を国鉄(現JR)から借り受け、貨物線の線路と並行に木造の歩道を設け、戦前から「赤川仮橋」として一般市民に開放していた。写真のように街路灯が灯る姿はもう見ることができないが、6年後の平成31年(2019)には、90年越しでようやく本来の複線橋梁として活用される時が来る。

(2013年12月の「土木巡礼カレンダー」に掲載)

 

奥多摩橋(東京都青梅市)

奥多摩橋(東京都青梅市)

谷間を流れる多摩川上流部に数多く架かるアーチ橋のひとつで、昭和14年(1939)、左岸側にある青梅線二俣尾駅とその対岸を結ぶために建設された。橋長は177.23m、上路ブレーストリブアーチのスパンは108mあり、戦前に架けられた道路用鋼アーチ橋として最大のスパンを誇る。さらにアーチライズ(アーチの高さ)も大きく、その姿はアーチとして洗練された印象を持つ。
また、アーチの両側にある側径間に、上路ボーストリングトラス通称「魚腹トラス」が両岸に合わせて3径間架かっていることも特徴のひとつ。支間長は22.5mと短いので、通常ならばシンプルな桁橋を採用するような部分だが、使用する鋼材を減らすための工夫かもしれない。鉄骨の繊細な組み合わせが橋全体に歴史的な風情を感じさせてくれる。

(2013年11月の「土木巡礼カレンダー」に掲載)

 

旧大河津可動堰(新潟県燕市)

旧大河津可動堰(新潟県燕市)

大正11年(1922)、新潟市内を流れる信濃川下流域の洪水調整のため、河口から約50kmの地点と日本海とをバイパスする長さ約10kmの大河津分水が完成した。 当初、分水への流量は「自在堰」と呼ばれる堰によってコントロールされていたが、完成後わずか5年で基礎が陥没。多くの水が分水側へ流出し、信濃川本川にほとんど水が流れなくなる事態が発生した。 写真の可動堰は、壊れた自在堰の置き換えるため、青山士や宮本武之輔らの下で建設されたものだ。 昭和6年(1931)の完成から約80年に渡り、越後平野の治水を担ってきたが、老朽化対策と流水能力向上を目的として、国土交通省は新たな可動堰を建設し、2011年にその役目を終えた。 旧可動堰は全長180mあり、合計10基の水門を備えていた。現在では右岸側にある3基の水門だけが現地に保存されている。

(2013年10月の「土木巡礼カレンダー」に掲載)