初代土木学会会長 古市公威が語る「土木学会の精神」

幼少時代~エコール・サントラルまで

西暦 年齢 出来事 本文
1854年
(安政元)
1歳 7月 江戸蠣殻町の姫路藩中屋敷に生れる。幼名は兵庫郎

古市は、14才にして開成所に入学し、以後6年間、わが国に初めて誕生した本格的エリート学生集団におけるリーダーの一人として学内外で活躍した。当時の彼の様子を伝えるこんな描写がある。

「古市は年齢の割合に老けて見えた。而して其容貌が老熟してゐたのみならず、其思想が亦早く稚気を脱してゐた。自然物の言ひ振りなど成人びたもので、彼か其破格に大きな、そして腹から出るやうな-少なくとも口先からは出ぬ、咽喉から出るやうな音声を振り上げて、親爺染みた議論を吐くところ、其校帽、校服と対照して一種の奇観であった。思ふに当時の学生は誰に依らず、皆多少の悪戯話を持ってゐるが、古市には特に是れといって紹介すべき話柄がない。是れ彼が悪戯などは子供のする事である、乃公(おれ)などの関係すべき事でないと、高くとまってゐた結果であらう。」

こうした大人びた風貌を備えた青年古市は、「一介眇たる書生の身を以て時の大官貴人を動かし、殺気充ち満ちたる間に於て、一身を犠牲にして能く其所志を貫徹した(中略)革命家」の一人で、「大学南校、開成学校時代の歴史的事件にして彼の関係して居らぬものは殆どな」いといわれたほどの行動力を発揮したわけである。

1863年
(文久3)
10歳 一家は姫路に移る。藩校「好古堂」にて漢学及び国学を学ぶ
1865年
(慶応元)
12歳 一家は再び江戸に出仕する。勤学生を
命じられ、上屋敷内の学問所に通う。
剣術は直心影流、弓術は太子流を習う
1868年
(明治元)
15歳 2月 姫路藩は藩邸を朝廷に上納。政情不穏のため藩主酒井忠績の護衛に当たる。父の勧めで勉学に精進し冬より英語を学び始める。
明治維新
1869年
(明治2)
16歳 正月 開成所の募集に応じ開校と同時に入学する。講習(地理、歴史・物理))、語学、数学の三科を修め、語学は仏語
1870年
(明治3)
17歳 10月 藩の貢進生として大学南校に入学
古市と父・孝 (1870年撮影『古市公威』)
古市と父・孝 (1870年撮影『古市公威』)
古市(右)と石本新六(1871年撮影『大学々生溯源』)
古市(右)と石本新六
(1871年撮影『大学々生溯源』)
1873年
(明治6)
20歳 4月 学校は開成学校と改称され、仏語料生に諸芸学科を設置、これを修める  

フランス留学時代

西暦 年齢 出来事 本文
1875年
(明治8)
22歳 7月 諸芸学修業のため仏国留学を命じられ、米国を経由し9月パリに到着「エコール・モンジュ」に入学する

古市はフランス到着後、まずパリのエコール・モンジュ(現、リセ・カルノ)で一年間学ぶ。若きエリート土木官僚エメ・ゴダールが創設したばかりのこのエリート養成学校で、古市はフランスの近代的精神に触れる絶好のチャンスを得る。(古市卒業後に実現されるものの)校庭にはエッフェル社による鉄骨ガラス屋根(通称エッフェル・ホール)が建設され、この学校は設備について先進的取り組みを徹底していた。

エコール・モンジュを1年で卒業した彼は、エコール・サントラルに優秀な成績で入学する。民間の技術者を養成するこの学校で、彼はフランス流シヴィルエンジニア精神、つまり土木に限定されず、機械、科学、冶金など工学のあらゆる分野に通じるという技術者の精神を学ぶ。ここでの三年間の経験と、工学の基礎として高等数学を学んだパリ大学での一年の経験が、工学の総合性を訴える彼の土木学会第一回講演に結実するわけである。

エコール・サントラルでの学生生活は真面目そのものであった。同じ学校で学んだ沖野忠雄には及ばないものの3年間で休み2回、遅刻3回、退席3回のみ、学校では厳格な規則に縛られた日々を送っていた。その上成績表には、落ち着いて勉学に邁進した古市の姿が描かれており、日本では煽動的でさえあったリーダーが、蓄積した自信と実力をもとに、人望厚い人格者へと脱皮する様子が伝わってくる。2、3年の時に彼は土木を専攻するが、工学の総てに通じる学生を養成するという当校の哲学に基づき、実技科目は専攻ごとに分かれるものの学科は全生徒で共通(応用化学、採掘設備、畜産学など多岐に渡る分野が必修)であり、受講ノートを見ても彼が土木の領域のほんの一部にしか触れていないことが分かる。つまり、古市はフランスで土木の学習を極めたわけではなく、工学全般の知識を深めたのである。いずれにしても、彼は全体で7番(土木専攻41人中では2番)という優秀な成績で卒業する。

卒業後、彼は友人らを連れだって、全体で約20日間に渡る英国、フランス、ベルギー、オランダの公共事業調査旅行に出る。この旅行で、彼は西欧諸国において公共事業に多額の投資がなされていることを痛感しており、民間活力を軸とした英国を引き合いに出し、日本の産業界に公共投資を期待している。また、列強に囲まれつつヨーロッパ大陸で最初に産業革命に成功したベルギーに、当時まだ小国だった日本の未来を重ね合わせているのである。また各国の港湾を実査した上で、技術者の手によるわが国で最初の東京築港論を展開する。西欧の大港湾がほとんど河口に位置していることから、横浜ではなく隅田川の河口に日本の中心的港湾を建設する必要性に思いを強くするわけである。 

第1回文部省貸費留学生(1875年撮影『古市公威』)
第1回文部省貸費留学生
(1875年撮影『古市公威』)
同じ配列で撮られた1906年の写真
(『大学々生溯源』)
同じ配列で撮られた1906年の写真
(『大学々生溯源』)
古市の描いたエコール・モンジュ新校舎(東京大学社会基盤工学専攻図書室『古市文庫』蔵)
古市の描いたエコール・モンジュ新校舎(東京大学社会基盤工学専攻図書室『古市文庫』蔵)
1876年
(明治9)
23歳 7月 「エコール・サントラル」の競争入学
試験で6番の好成績で入学を果たす
エコール・サントラル
エコール・サントラル
留学時代のノート
留学時代のノート
エコール・サントラル学位記
エコール・サントラル学位記
パリ大学学位記
パリ大学学位記
1879年
(明治12)
26歳 8月 「エコール・サントラル」を7番の成績で卒業
11月 パリ理科大学に入学する
西欧公共事業調査旅行経路
西欧公共事業調査旅行経路
エコール・サントラル時代の
同級生
(前列中央 古市 右から三人目 山口半六 中列 右から一人目 沖野忠雄)
エコール・サントラル時代の同級生
(前列中央 古市 右から三人目 山口半六 中列 右から一人目 沖野忠雄)

内務省技術者時代~豊平川水害防御計画

西暦 年齢 出来事 本文
1880年
(明治13)
27歳 7月 パリ理科大学を卒業
9月 パリを出発し10月、横浜に到着
12月 内務省土木局雇を命じられる
ファン・ドールンが離日
■三国港突堤築造
1880(明治13)年12月に内務省土木局に奉職した古市は、まず河川・港湾の改良工事の設計および工事監督に従事した。その初めは、九頭竜川河口にある福井県三国港の突堤築造であった。82年2月に現地に派遣されて調査し、エッセルが設計した突堤の工事未竣功部分を直轄で施工した。
三国港(旧阪井港)突堤(写真提供 西山芳一氏)
三国港(旧阪井港)突堤(写真提供 西山芳一氏)
1881年
(明治14)
28歳 6月 内務省御用掛に任じ、土木局事務取扱を命ぜられる
10月 東京大学理学部講師を嘱託
 
1882年
(明治15)
29歳 2月 開拓使廃止
8月 内務卿に随行し、豊平川改修工事を計画する(北海道)
 
1883年
(明治16)
30歳 2月 豊平川改修工事案を提出
6月 豊平川改修工事に着手する
■水害防御計画
1882(明治15年)8月、古市は同年4月の水害で破堤した北海道の豊平川を視察し、翌年2月、札幌市街地への水害を防ぐための計画を立案した。その内容は2kmに及ぶ堤防と護岸の新設および水門1ヵ所の築造であった。工事は、札幌県によって83年6月に着手され、84年度に竣功した。この間、古市は83年6月と翌年6月の2度現地に赴き、指導にあたった。しかしながら、立派につくられたこの堤防でも豊平川の出水を抑えこむことはできず、89年9月に決壊してしまった。
下の豊平川水害防御計画図面は、1883年2月に内務省に提出されたものであり、古市がフランス留学で習得した作図技法が、見て取れる。同図面はまた、現存する近代最古級の河川改修平面図であると考えられる。
古市公威が自ら作成した豊平川水害防御計画図面(国立公文書館蔵、重文)
古市公威が自ら作成した豊平川水害防御計画図面(国立公文書館蔵、重文)
豊平川水害防御計画図面・部分拡大図(国立公文書館蔵、重文)
豊平川水害防御計画図面・部分拡大図
(国立公文書館蔵、重文)
低水堰平 面図・横断面図等
低水堰平 面図・横断面図等
鴨々水門の木工
鴨々水門の木工
堤防横断面図
堤防横断面図
護岸・沈 床等横断面図
護岸・沈 床等横断面図
鴨々水門の門扉
鴨々水門の門扉
1884年
(明治17)
31歳 1月 結婚。本郷弥生町に新居
3月 信濃川・阿賀川・庄川等の土木局直轄工事監督につく
12月 新潟県在住となり、2つの出張所で工事を監督する
11月 政府は野蒜築港の中止を決定

■古市波止場
1884年、古市は土崎港(現秋田港)を訪れ、陸地崩壊を防ぐ必要を指摘し、古市の設計に基づき波止場建設工事が実施され翌年5月に完成を見た。この波止場は「古市波止場」と呼ばれた。

■信濃川堤防改築
1884年夏から古市は、新潟県を流れる信濃川の低水路整備および水害を防ぐため、川幅の整理と築堤を行った工事に携わる。1884年8月から11月にかけて設計し、それに基づいて85年度に国直轄の河身改修、86年度に県営の築堤工事にそれぞれ着手した。古市は、86年5月に帝国大学工科大学長に就任して帰京するまで、信濃川出張所を拠点として河身改良工事の監督にあたった。
しかし県側の築堤工事はうまく進まず、河身改修工事だけでは効果が発揮できないため、信濃川は古市が設計・施工した修築工事後もたびたび水害に見舞われ、地元から設計変更を求める建議も提出されていた。また1896年、信濃川は未曾有の大洪水となり、横田切れといわれる大規模な破堤などによって、広範囲にわたって甚大な被害が発生した。

この水害を機に「大河津分水工事」実施を望む声が高まり、土木監督署でも測量・設計を実施するが、工事着工は1907年まで待つことになる。

土崎港明治年間第一期工事の古市波止場
(『運輸省第一港湾局 百年の歩み』所収)
土崎港明治年間第一期工事の古市波止場
(『運輸省第一港湾局 百年の歩み』所収)
(新潟県内の信濃川流路
『新潟県治水方針』1916年所収)
(新潟県内の信濃川流路
『新潟県治水方針』1916年所収)
1896年大洪水(横田切れ) 信濃川左岸 西蒲原郡横田村(分水町) 近辺の田畑荒燕の状況(出水後21 日) (古市公威旧蔵写真)
1896年大洪水(横田切れ) 信濃川左岸 西蒲原郡横田村(分水町)
近辺の田畑荒燕の状況(出水後21 日) (古市公威旧蔵写真)

帝国大学工科大学学長及び内務省土木技監・土木局長時代

西暦 年齢 出来事 本文
1885年
(明治18)
32歳 11月 木曾川下流改修工事完成
12月 工部省廃止
 
1886年
(明治19)
33歳 5月 工科大学教授兼工科大学長に任命(講義は河川運河港湾)内務技師兼任で土木局勤務を命じられる
7月 土木監督区署官制が公布

■帝国大学の整備
殖産興業を第一とした明治政府は、工学を大学レベルの教育に位置づけ、人材を確保し技術者育成を優遇した。世界の工学教育史上で特異なこの日本の方式は工部省工部大学校を生み出し、1886年(明治19)帝国大学の有力な一分科、工科大学の発足をみて不動のものになった。

しかし工科大学は、東京大学工芸学部と工部大学校の合併から始まったため、両者の校風の差(基礎理論教授の徹底に対して実践教育の重視)および教員や学生同士の待遇差など、多くの不協和が発生した。これを収める役目を負ったのが古市工科大学長であった。古市はこの難局に生来の合議に導く能力を発揮し、次第に信頼を集めて部内を一致に導いた。古市を悩ませたのは教授人員の確保だった。優秀な技術者は実業界にも必要とされたのである。 

土木の教授としては「河川・運河・港湾」を担当した。日本語とフランス語の混じった講義を行い、語気は強く早口だったという。内務技師も兼任した古市の業務は多忙を極めた。

工部大学校(本郷移転までの帝国大学工科大学)、 東京大学、内務省(旧姫路藩上屋敷) (1883年「東京府武蔵国麹町区大手町及神田区錦町近傍(右)」及び 「東京府武蔵国芝区南佐久間町及愛宕町近傍(左)」 参謀本部陸軍部測量局:五千分一東京図測量原図 日本地図センター)
工部大学校(本郷移転までの帝国大学工科大学)、 東京大学、内務省(旧姫路藩上屋敷) (1883年「東京府武蔵国麹町区大手町及神田区錦町近傍(右)」及び 「東京府武蔵国芝区南佐久間町及愛宕町近傍(左)」 参謀本部陸軍部測量局:五千分一東京図測量原図 日本地図センター)
萬代橋(木橋)写真 -福井氏所蔵-
萬代橋(木橋)写真 -福井氏所蔵-
1887年
(明治20)
34歳 2月 工手学校開設
工手学校設立に際し設立発起人の一人として尽力
4月 木曾三川分流工事着工
 
1888年
(明治21)
35歳 5月 古市(土木)と他4名に本邦初の工学博士号が授与される
9月 東京市区改正委員を命じられる
11月 内務大臣山県有朋の欧州諸国巡回に随行を命じられる
 
1889年
(明治22)
36歳 2月 大日本帝国憲法発布
9月 帰朝
 
1890年
(明治23)
37歳 6月 内務省土木局長に任命。工科大学教授兼工科大学長は兼務となる
9月 貴族院議員に勅選される
■古市と能 「英照皇太后」
1890年4月に青山御所にて素人能楽の台覧があった。明治の能再興に大きく貢献したといわれる英照皇太后が見守る中、古市は五十二世梅若六郎(後二代目実)を小方に「望月」のシテ(主役)を演じた。古市が舞台に姿を現したとき、英照皇太后は「あれは素人ではないぞ」と近侍に語ったとのことである。
青山御所台覧能にてシテ方を演ずる古市
青山御所台覧能にてシテ方を演ずる古市
明治20年前半の能稽古表(『梅若実日記第3巻』
から抜粋)
明治20年前半の能稽古表(『梅若実日記第3巻』 から抜粋)
扁額「日進无彊」(姫路市教育委員会蔵)
扁額「日進无彊」(姫路市教育委員会蔵)
本郷の旧古市宅
(写真集『瀬川邸の四季』所収)
本郷の旧古市宅
(写真集『瀬川邸の四季』所収)
梅若日記における出現頻度
梅若日記における出現頻度
【補足】
古市は1881(明治14)年に鳩山和夫等留学組5名とともに梅若実(明治に至り廃業の危機に陥った能を、宝生九郎、桜間伴馬を支援しながら一人で支え、彼らとともに明治3名人と讃えられた)の門に入った。しかし他の者たちの足が遠のいていくのに比し、古市は公務が多忙になればなるほど、「能」に入れ込んでいくように見える。上記表は梅若実が書き残した詳細な日記のうち、古市の名前の記載のある1887年前半部分であるが、この時古市は34歳、東京大学工科大学長兼内務省土木局内務技師の重責にあり、東京仏学校(法政大学の前身)校長心得の他、政府委員なども務めていた。
1892年
(明治25)
39歳 5月 内務省所管事務政府委員を命じられる ■鉄道敷設法、鉄道会議を設置
古市が鉄道と関わった明治30~40年代は、全国を結ぶ鉄道網の骨格が形成されつつあった時代と重なる。政府は1892(明治25)年、鉄道の敷設を計画的に進めるため、鉄道敷設法を公布し、国の施策としてこれを推進する体制を固めるとともに、諮問機関として鉄道会議を設置した。古市は、鉄道会議の議員または議長としてこれに参画した。
【補足】
1906年に鉄道国有法が成立したが、古市は貴族院議員として法案に対する賛成意見を述べ、「予は唯一の商工業発展の為に必要なりとの理由を以て、一直線に進むべし。予は今日を以て実行の好時機なりと信ず。鉄道国有の如き、思い切って断行すべし。」と主張した。そして、この年から翌年にかけて全国の主要私鉄が買収され、ここに帝国鉄道庁(のち鉄道院)が発足した。国による全国鉄道網の運営・管理体制は、1987(昭和62)年の国鉄の分割・民営化まで、約80年間にわたって続くことになる。
1893年
(明治26)
40歳 6月 治水,道路,築港の諮問機関、土木会の委員を命じられる  
1894年
(明治27)
41歳 6月 内務省土木技監に任命される
8月 日清戦争(翌年4月講和)
 

河川法・砂防法の整備、淀川改修、大阪港修築、横浜築港

西暦 年齢 出来事 本文
1896年
(明治29)
43歳 4月 河川法公布される
淀川改良工事が着工

古市は山縣有朋のヨーロッパ巡行に主席随行員として同行し、帰国後の1890(明治23)年、山縣内閣の下で土木局長に就任した。
その後、1898年まで局長また土木技監として土木行政を指導した。この間の大きな成果として1896年の河川法、翌年の砂防法の制定がある。この成立に際し、帝国議会の答弁に立ったのが古市である。
治水事業は、政府直轄による工事を地方から強く望まれ、帝国議会ではたびたび建議が行われた。議会では、法律を特に定めなくてもそれまでの修築事業(低水路整備が中心)と同様に、直轄事業は出来るのではないか、との質問が出された。政府は、法の下に事業を進めるという法治国家の立場を頑として貫いた。河川法の成立に基づき、即座に淀川・筑後川で国直轄による高水工事が着手された。

淀川改修と密接な関係を持つ大阪港修築は、翌年の1897年に着工した。この両工事の計画決定に、古市は技術官会議等で指導した。欧米から多くの大型施工機械が導入され、機械力を本格的に駆使する我が国はじめての大規模土木工事が展開された。両工事を現地で指導したのは、仏エコール・サントラルでの学友・沖野忠雄である。
逼迫する財政のなかでのこの工事の着手は、大陸での三国干渉、その後のロシアの南下という厳しい国際情勢の下で、対ロシア戦に備え、大型機械施工能力の獲得が重要な一つの目的であったと考えている。

毛馬 門(『淀川治水誌』
1931年所収)
毛馬 門(『淀川治水誌』
1931年所収)
竣功当時の大阪灯台及び防波堤(『古市公威』)
竣功当時の大阪灯台及び防波堤(『古市公威』)
竣功当時の大阪灯台及ひ
゙防波堤(『古市公威』)
竣功当時の大阪灯台及ひ
゙防波堤(『古市公威』)
淀川平面図(『淀川治水誌』1931年所収)
淀川平面図(『淀川治水誌』1931年所収)
淀川平面図(『淀川治水誌』1931年所収)
淀川平面図(『淀川治水誌』1931年所収)
■横浜築港
イギリス人技術者パーマーの計画に基づき、わが国最初の海面に防波堤で碇泊地を保護する横浜築港第一期事業が1896年に完成した。これに続いて古市の計画により第二期事業が1899年から着工された。繋船岸壁の築造、屋・倉庫・起重機の設置、横浜駅と連絡する臨海鉄道の整備を行うものであった。港と鉄道が直接的につながれたのは、この事業が初めてであった。1917(大正6)年に竣功したが1923年の関東大震災で大きな害を被った。
横浜税関埋立地全景
(『横浜税関海面埋立工事報告』1906年所収)
横浜税関埋立地全景
(『横浜税関海面埋立工事報告』1906年所収)
震災直前ニ於ケル横浜税関設備図 (『横浜税関陸上設備震災復旧工事概要』1931年所収)
震災直前ニ於ケル横浜税関設備図
(『横浜税関陸上設備震災復旧工事概要』
1931年所収)
1897年
(明治30)
44歳 3月 砂防法公布される。
足尾銅山鉱毒事件調査委員(11月まで)
10月 港湾調査委員
■足尾鉱毒事件
足尾鉱毒問題は、明治20年代になって被害が顕在化し、鉱業停止を求める被害民の活発な運動が展開されて1897年3月、内閣直属の足尾銅山鉱毒事件調査委員会が設置された。委員となった古市は、技術的な立場から、停止しなくても予防工事は行えるのであり、停止する必要はないと主張した。この主張がとおり、鉱山側に期日を指定して完全かつ永久的な防備を行わせる、必要な場合には政府がこれを実施して費用を古河から調達する、もしくは停止させるという結論となった。
古市公威肖像写真(1897年 44歳)
古市公威肖像写真(1897年 44歳)
足尾銅山の工場・煙突・鉱山(古市公威旧蔵写真)
足尾銅山の工場・煙突・鉱山(古市公威旧蔵写真)

逓信次官~統監府鉄道管理局長時代

西暦 年齢 出来事 本文
1898年
(明治31)
45歳 7月 願により土木技監兼土木局長兼工科大学教授兼工科大学長を免ぜらる 
11月 逓信次官に任命、鉄道局長心得を兼任
12月 鉄道会議議員となる
「定紋入文箱」(姫路市教育委員会蔵)
「定紋入文箱」(姫路市教育委員会蔵)
1899年
(明治32)
46歳 6月 東京市長より東京築港調査計画を嘱託される                    
2月 鉄道国有調査会委員を命じられる
6月 鉄道会議議長となる  
 
1900年
(明治33)
47歳 3月 私設鉄道法・鉄道営業法が公布
4月 京釜鉄道商議員を命じられる
■東京築港
近世、隅田川河口港が栄えていたが、芝浦・品川沖での新たな海港建設が東京からいくたびも主張され、遂に1900(明治33)年、古市と中山秀三郎(東京帝国大学教授)による計画が東京市会で可決され本計画となった。そのお手本としたのは、フランス海軍省海工監督官ルノーの計画であった。しかし事業予算額の巨大さ、横浜からの強力な反対運動により実現しなかった。古市は横浜税関拡張工事計画(第二期築港事業)も策定したが、東京築港を前提にしてその規模を定めていた。芝浦沖に港湾施設が整備されるのは、関東大震災後である。
東京築港計画報告書
(東京大学社会基盤工学専攻図書室
『古市文庫』蔵)
東京築港計画報告書(東京大学社会基盤工学専攻図書室『古市文庫』蔵)
1901年
(明治34)
48歳 6月 工手学校第2代管理長に就任
8月 京釜鉄道工事着手される
■海外の鉄道計画(京釜鉄道)
朝鮮半島における鉄道の歴史は、1894年に締結された日韓暫定合同条款に遡り、これによって日本は京仁鉄道及び京釜鉄道の敷設権を獲得した。その後、帝国議会における関係法案の整備などを経て、1901年6月25日に京釜鉄道が設立された。しかし日露関係が緊張状態を迎えると、軍部はその早期開業に対して圧力を強めた。このため、政府では総裁・理事を官選とすることにして組織の建て直しを図った。
1903年
(明治36)
50歳 2月 東京帝国大学名誉教授の名称を授けられる                    3月 鉄道作業局長官に任命
12月 京釜鉄道株式会社総裁に任命、1ヶ年での全線開通を下命される
■鉄道作業局長官から京釜鉄道総裁
鉄道作業局長官・松本荘一郎は、1903(明治36)年3月19日に現職のまま急逝したため、3月31日付で古市が後任として長官に就任した。この年のイベントとしては、6月11日の中央線・初狩野(現・甲斐大和)~甲府間の開業があり、古市は開通祝賀会にあわせて八王子、甲府、塩尻を経て南木曽、多治見、名古屋に至る沿線現場の視察を行った。この年に完成した中央線・笹子トンネルは、明治時代の鉄道トンネルとしては最長(4,656m)を誇り、1896年の着工以来、外国から輸入した掘削機械を投入し、電気機関車によるずり運搬や電灯照明などの新しい試みが採用された。その後、古市は京釜鉄道総裁に就任したため、わずか9ヶ月であわただしく鉄道作業局を去った。
1903年12月に古市公威が総裁に任命された。古市は、鉄道作業局から久野知義、岡村初之助らを抜擢して、翌年10月を開業期限として工事の速成にあたることとした。
京釜鉄道路線図および各建設事務所長(『朝鮮鉄道史第1巻』1929年所収)
京釜鉄道路線図および各建設事務所長(『朝鮮鉄道史第1巻』1929年所収)
久野知義
 (1860~1925)
久野知義
(1860~1925)
古市公威総裁
古市公威総裁
岡村初之助
(1863~1915)
岡村初之助
(1863~1915)
1904年
(明治37)
51歳 2月 日露戦争開戦
11月 京釜鉄道開通
 

東亜鉄道研究会と孫文の来日

西暦 年齢 出来事 本文
1905年
(明治38)
52歳 1月 京釜鉄道全線での営業開始
9月 日露講和を締結
東亜鉄道研究会設立 理事長に就任

■京釜鉄道開業
京釜鉄道は、1905年1月に草梁~永登浦間が開業し、ここに京城~釜山間が全通したが、これは日本が海外で経営する鉄道としては最初の営業路線となった。正式な開業式典は、やや遅れて同年5月25日に京城の南大門停車場前広場で挙行された。式典が行われたわずか2日後、日本は対馬沖でロシアのバルチック艦隊を撃破し、ここに歴史は大きく動くことになるのである。

東亜鉄道研究会は、東アジア地域における鉄道の普及と人材交流をめざすために各界有識者と鉄道界の重鎮によって1905(明治38)年に設立され、古市はその理事長に就任した。東亜鉄道研究会では、原口要、小川資源、本間英一郎、平井晴二郎といった第一線の鉄道技術者たちを中国へ派遣したほか、岩倉鉄道学校(現・岩倉高校)などが受皿となって留学生を迎え入れた。東亜鉄道研究会が開催した行事の中で特に注目されるのは、1913(大正2)年の孫文の来日であった。歓迎宴は2月20日、京橋の精養軒で開催され、協会側からは古市をはじめ、鉄道幹部が出席した。孫文は中国の実情と鉄道の将来計画などについて2時間にわたって講演し、日本の協力と支援を訴えた。

孫文はやがて鉄道、運河、築港、治水などを含む中国全土の国土計画「建国方略」を発表するが、1925年に北京で客死し、やがておこる日中戦争や内戦によってその計画も挫折してしまうのである。
孫文[中山](1866~1925) 
1912年1月中華民国の臨時大 統領に就任。同年4月には袁 世凱にその座を譲って中国鉄 路総督弁(鉄道建設大臣)の 地位に退く。東亜鉄道研究会 では帝国鉄道協会との共催で 歓迎宴を開催。辛亥革命後に 孫文が来日するのはこれが初 めてであったため、国賓級の 待遇で迎えられた。
孫文[中山](1866~1925)
1912年1月中華民国の臨時大 統領に就任。同年4月には袁 世凱にその座を譲って中国鉄 路総督弁(鉄道建設大臣)の 地位に退く。東亜鉄道研究会 では帝国鉄道協会との共催で 歓迎宴を開催。辛亥革命後に 孫文が来日するのはこれが初 めてであったため、国賓級の 待遇で迎えられた。
「孫中山先生建国方略図」鉄道、運河、築港、治水などを含む中国全体の国土計画案(小野田 滋蔵)
「孫中山先生建国方略図」鉄道、運河、築港、治水などを含む中国全体の国土計画案(小野田 滋蔵)

古市と能 「京釜鉄道竣工式」

青山御所台覧能にてシテ方を演ずる古市
古市は朝鮮における鉄道敷設に対し、自ら陣頭指揮に立ち日露戦争に間に合わすべく、注力する。1905年、釜山と京城をつ なぐ京釜鉄道が完成。その竣工式に日本から梅若実の斡旋により観世流の能楽師を呼び寄せ、能舞台を設けて祝能を催す。翌5 月26日の慈善会では、当時大阪随一といわれた大西亮太郎に成り代わり、「山姥」を演じた。日本海海戦のわずか2日前のこと であった。

京釜鉄道竣工式・慈善会(『古市公威』所収)
京釜鉄道竣工式・慈善会(『古市公威』所収)

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1906年
(明治39)
53歳 3月 鉄道国有法成立
6月 統監府鉄道管理局長官を任命
7月 京釜鉄道全線の買収引継を完了  
9月 帝国学士院会員を命じられる
日露戦争の終結とともに第二次日韓協約が締結され、京釜鉄道は日本政府の監督下に置かれることとなり、1906年、古市は統監府鉄道管理局長官となった。そして、1907年6月に辞任を願い出、3年半におよんだ朝鮮における鉄道との関わりに終止符を打った。
鉄道国有法成立時の鉄道網 1906年(『日本国有鉄道百年史3』所収)
鉄道国有法成立時の鉄道網 1906年(『日本国有鉄道百年史3』所収)
1907年
(明治40)
54歳 6月 統監府鉄道管理局長官を辞任  

工学界・工業界の重鎮・長老時代

西暦 年齢 出来事 本文
1909年
(明治42)
56歳 8月 東亜興業(株)社長に就任する    
6月 帝国学士院第二部部長に当選
古市は自分について「僕はどうも学者でもなし、実際家でもなし、技術家でもなし、行政家でもなし、何だか訳の分からない人間で、まあ鵺(ぬえ)的人物とでも言うのだろう」と語っている。社会の要請に従い自在に変化し、求められる能力を発揮する、それが古市の本領であった。1909(明治42)年、帝国学士院第二部(理学およびその応用諸学科)の部長に当選すると13年間これを務め、各界に働きかけて学術振興への理解を促し、資金調達と活動の拡充に努めた。古市の究極の目的は理論科学を技術として社会へ応用する「ScientificEngineering」の確立にあった。そして工学会はこれに至る活動の場となる。会長に就任した古市は、各専門の学協会を総合した工業標準化委員会を組織し、当時の度量衡をメートル法に統一する事業および工学教育制度の改善、各種工業の発展策の調査について提案している。そして国際間の連絡を企図する学術研究会議が設置されると、欧米の科学状況に鑑みて諸科学の研究所を創設するよう政府に建議した。設立に関与したものに「地震研究所」「科学博物館」「航空研究所」等がある。
1911年
(明治44)
58歳 4月 広軌鉄道改築準備委員会委員に任命される  
1914年
(大正3)
61歳 6月 日仏協会理事長に就任
7月 第一次世界大戦開戦
 
1915年
(大正4)
62歳 1月 土木学会初代会長に当選、就任  
1917年
(大正6)
64歳 6月 工学会会長に就任する
10月 (財)理化学研究所所長を委嘱される
 
1918年
(大正7)
65歳 11月 世界大戦終了  
1919年
(大正8)
66歳 8月 道路会議議員に任命される
12月 勲功により男爵を授けられる
男爵記(姫路市教育委員会蔵)
男爵記(姫路市教育委員会蔵)
1920年
(大正9)
67歳 8月 東京地下鉄道(株)社長に就任する 12月 学術研究会議会長に当選
日本工人倶楽部発会式
東京地下鉄道起工式 前列椅子席右側よりルドルフ・ブリスケ、早川徳次、 古市、野村龍太郎 1925年(『東京地下鉄史 乾』所収)
東京地下鉄道起工式 前列椅子席右側よりルドルフ・ブリスケ、早川徳次、 古市、野村龍太郎 1925年(『東京地下鉄史 乾』所収)
1922年
(大正11)
69歳 8月 工学会を組織変更し「日本工学会」と改称、初代理事長に就任する
朝倉文夫作 古市公威胸像 (工学院大学蔵)
朝倉文夫作 古市公威胸像 (工学院大学蔵)
1923年
(大正12)
70歳 9月 関東大震災
10月 帝都復興院評議会評議員に任命
 
1924年
(大正13)
71歳 工手学校復興会長に就任、再建に尽力し工学院大学の中興の祖と言われる  
1927年
(昭和2)
74歳 3月 万国工業会議準備委員会を開催し準備委員長に推挙される
11月 第1回日本工学会大会を開催し大成功に導く
古市公威を会長とする工学会は、開催計画の中心となって政府からの資金援助を取り付けて国家的事業として位置付け、副会 長には東京帝国大学教授斯波忠三郎とともに、三井財閥の団琢磨(日本工業倶楽部、1878年MIT鉱山学科卒)を据え、また工学 会に属する12学会会長を推薦して、官学民一体での推進をはかった。 当時の時代背景の中で、世界の技術者、工学研究者が日本において一同に会し、幅広く交流していたことは、記憶に十分値す る歴史的出来事だといえよう。古市にとって見れば、憧憬の念にかられて若き日々を過ごした西洋での生活から、すでにおよそ 半世紀が過ぎ、自らの歩みと共に国土に蓄積された近代化の成果を世界に問う、技術者・研究者人生の最大の見せ場であり、同時に最後の檜舞台でもあった。
1928年
(昭和3)
75歳 1月 万国工業会議評議員会が開催され会長となる、日本動力協会会長に就任 復興資金による同窓会館落成時に古市の胸像除幕式が行われる。しかし古市は「渡邊(洪基)先生の胸像の前に作るとはもってのほか」と公開を許さず、創立50周年(1938)に渡邊の胸像とともに公開された。

古市と万国工業会議

西暦 年齢 出来事 本文
1929年
(昭和4)
76歳 10月 万国工業会議会長として会議を東京に開催する
世界恐慌始まる
1929(昭和4)年10月29日、古市を会長とする「万国工業会議」が開催された。西洋列強から非文明国として扱われていた日本は、第一次世界大戦を経て軽工業段階から重化学工業化を達成し、今やワシントン体制のもと新たな国際秩序の構築に欠くことのできない存在となり、学問の世界についても、近代化の成果を世界に対して示しうる段階へと移行していた。一方、同年10月24日には、ニューヨーク株式市場での株価大暴落が生じていた。これを引き金に世界恐慌が始まり、2年後には満州事変が勃発し日本は15年戦争へと突入していくことになる。同会議はこのような状況下で開催された。
古市公威の自筆サイン (『Industrial Japan』所収)
古市公威の自筆サイン (『Industrial Japan』所収)
万国工業会議主要関係者集合写真 前列左から9人目
万国工業会議主要関係者集合写真 前列左から9人目
万国工業会議閉会を宣言する古市公威
万国工業会議閉会を宣言する古市公威
記念ワッペン
記念ワッペン
【補足1】
1925(大正14)年3月、米国機械学会からの要請を受け、古市公威を会長とする工学会は万国工業会議開催を受諾した。約4年の準備期間を経て、1929年10月29日、東京日比谷公会堂にて開会式を迎える。参加者総数は4,495名、海外からは42カ国1,285名、とりわけ米国からは同伴者を含め300名余が来日している。提出論文は海外21カ国から442篇、日本371篇、12分科会に分れて発表された。

【補足2】
万国工業会議は1901(明治34)年パリ、1904年セントルイス、1915年パナマ運河開通を記念してサンフランシスコで開催されたが、参加国が比較的少なく所謂国際的工業会議たる実績を挙げていなかった。しかし東京開催の同会議は同時に開催された世界動力会議と併せ未曾有の大規模となった。その要因としては、第一次大戦とその後における工業上の発展、新興の東洋強国に対する欧米諸国の注目度が高かったこと等があげられる。古市等は、大著『Industrial Japan』を刊行して、我が国の工業発展を大いに紹介した。                               
大挙してやってきた海外参加者は1週間にわたる会議の終了後、さらに1ヶ月間に渡り関東、関西、九州さらに日本の支配下にあった台湾、朝鮮半島、南満洲鉄道附属地への視察見学を行い、日本の工業発達状況、伝統文化に接した。実際、会員間の親睦を深める宴会や、見学旅行の数はすさまじかったようである(右に示す見学先の名前を記したワッペンからもその一端がうかがえる)。宴会に関しては、こんな逸話が残されている。「工業会議は英訳でWorld Engineering Congress となって居り会員が胸先につけたBadge には其頭文字を取ってW.E.C. としてあった。宴会が夫れから夫れへと続いたので、或る人はWe Eat Constantly 即ち我等は絶えず食っていると洒落たものである」    

1931年
(昭和6)
78歳 9月 満州事変勃発
12月 「明治工業史」全10冊出版完了
晩年の古市公威
晩年の古市公威
古市公威揮毫「利用為大作」(工学院大学蔵)
古市公威揮毫「利用為大作」(工学院大学蔵)
1934年
(昭和9)
81歳 1月28日永眠